「~映像と斜陽」再編 国内の美術作家による実験的な上映会の試み

2021.12.05

2021年5月1日に収録したトーク

鐘ヶ江さん 

ここにいる岡本と鐘ヶ江の二人で、映像を作っている作家を集めて、昨年2020年の7月にSCOOLという場所で、『~映像と斜陽』というタイトルの全8作品の上映会を企画しました。今回のプログラムは、その再編したバージョンです。そこで、どういう基準で作家を探していたのか。少し批判的な言い方かもしれませんが、現在、美術でも映像作品は頻繁に展示されるようになってきたのに、その傾向は結構偏っている気がしていました。もう少し別の見え方がする映像、例えば単なるドキュメンテーションや特定の演技をさせるのではないもの、特に「映像の時間とフレームをいかに扱うか」という問題意識をもった作品を集めたらどうか。そう考えて、映像固有の知覚体験を再認識できるようなプログラムを構成するというのが、企画の主旨としてありました。映像って、見始めて見終わるそのあいだに、時間が流れていくような状況があって、見る人たちは能動的かつ受動的に、そこから何らかの意味、あるいは時間そのものを享受していると思います。そうした能動的でありかつ受動的でもある映像の仕組みに対して、センシティブなバランス感覚をもつ作家を、私たち二人で探してきました。また、「フィクション」という言葉を改めて用いて、フィクションと映像の関係を美術作家の視点から再考できたらいいな、という思いもありました。映像固有のフレームや時間、そしてフィクションを再考すること、この二点が大まかな企画テーマです。岡本さん、何か補足など大丈夫でしょうか?

岡本さん

映像のわかりやすい能力の一つとして、例えば目の前で起きていることを記録できるということがあります。でもそのとき、フレームやカットの端々でたくさん変なことが起こってしまう。撮影してそれを人が見るという一連のプロセスの中で、映像特有の「物語のかけら」のようなものがたくさんできてしまう。私たち企画側が「フィクション」という言葉で呼んでいるのは、映像内で明瞭に語られる物語というより、それ自体は物語ではない、けれどもそこから物語が生じ派生していくような、ある種の断片のことです。

鐘ヶ江さん 

せっかく作家がいるので、企画の話は一旦切り上げまして、個々の作品をどういった思考のもとで制作したかをお話していただけたらと思います。プログラムの一番目に上映された『イローナとベラ』の岡本さんからお願いします。 

岡本さん 

私がこの作品で捉えようとしたのは、「わかること」と「わからないこと」の関係です。この映像の素材を撮影したとき、自分はドイツ語がわからないので、女性(イローナ)の話す内容は何一つ理解せずに撮影しています。そんなとき、むしろこの女性の周りをうろうろと歩く犬(ベラ)とのコミュニケーションの方がわかると感じるような経験がありました。賢い犬で、ドアを開けろとか水をくれとか、明確にいろいろと教えてくれるんですね。それどころか、ドイツ語で育てられているので、自分よりドイツ語がわかっていた。だから女性もその犬に対して、靴をとってきてとか鳥を追い払ってとか、これまた明確にコミュニケーションをとっていました。そうした彼女たちとの関わりの中で自分が覚えたのは、「わかること」と「わからないこと」がグラグラとかき回されてしまうような感覚です。私にとって、彼女たちの様子を記録することは、この感覚を記録することでした。また、撮影プロセスではなく、映像上での「わかること」と「わからないこと」の関係を言うなら、例えば、明示的で意味や物語に結びつきやすいカットと、抽象的で意味や物語に結びつきにくいカットがあると思います。その場合、それが作る物語を中心にして、この明示的なカットとは何か、この抽象的なカットとは何か、と考えます。しかし逆に、ある抽象的なカットに軸にして、それと比較して明示的で説明に当たるようなカットとは何か、そこで得られる物語とは何か、と問うこともできるのではないでしょうか。これらは本来、相互に起きていることです。そして「わかること」と「わからないこと」の関係とは、まさにこの相互性の中で捉えられるべきものだと思っています。

鐘ヶ江さん 

ありがとうございます。高嶋さんと中川さんも上映作についてのコメントをお願いします。 

高嶋さん

僕らの映像は今回三番目に上映されたもので、『Dig a Hole in a Hole (Homogenize)』という作品です。先ほど「フィクション」というキーワードが出ましたが、一般に映像というメディウム内の区分では、劇映画っていうものはフィクションとされていて、その対比として、ドキュメンタリーという別カテゴリーがあると思うんですけど、僕らが今回出品したのは、むしろドキュメンタリーの一種なんじゃないかと考えています。何のドキュメンタリーかと言えば、いわば、映像という手品のドキュメンタリーです。しかも「あらかじめタネがわかっている手品」とか「タネも仕掛けもない手品」とか形容できるような、突飛な手品。いや、突飛であるにもかかわらず同時にその突飛さが打ち消されているような手品ですね。ともかくまず、手品のタネを探ろうとするように、この映像は見る側に、現に見えているものの仕掛けを探らせようと仕向けているところが一定量あるはずです。本作に限らず僕らの映像は「何が起こっているのか」と「どう撮られているのか」が交差する点に、求心性をもたせているのが特徴です。

中川さん

手品は映画のようなものかもしれないし、映画は手品のようなものかもしれません。手品のショーでは、たとえどんなに突飛なことが起こっても、その突飛さの原因が手品のタネにあることは誰でも知っている。突飛なのはタネがあるからであり、それ以上でもそれ以下でもない、と断言できてしまう。手品において、突飛なことが起きることは、ちっとも突飛じゃないわけです。他方で、あらゆる映画は「あらかじめ映画だとわかっている映画」です。映像という媒体には、一切の例外的な事態が起きないことが約束されているかのような、ある種の先取りされた均質さがある。デジタル以降、容易に編集操作できるようになってなおさら、その内で何が起きても「何か仕掛けがあるんだろう」と誰もが思う。仕掛けがあるとさえわかっていれば、具体的にどんな仕掛けかわからなくても高を括れる。仮に仕掛けがわかったところで、「仕掛けがある」というメタ了解を超える「わかる」にはならない。つまり手品と同様、映画においても、突飛なことが起きるということそのものは、いささかも突飛ではないわけです。

高嶋さん

「あらかじめ映画だとわかっている映画」って「あらかじめ虚構だとわかっている映画」と言い換えることができる。でも反対に、「現実を撮ったことがあらかじめわかっている映画」という先取りされた均質さもあるよね。結局この二種類の均し(均質化 Homogenize)、この「あらかじめ前提とされていること」が、「フィクション/ドキュメンタリー」という既存の区別をなしている。あるいはそうした二つの異なる前提を相互貫入させて、都合よく使いまわしている。いわば、いつもすでに(至極モノわかりの悪い)私がわかる前から(至極モノわかりの良い)私にわかられてしまっている圏域があるわけです。映像を見ていて、それが映像でなく見えてしまうということなんてそうそうない。しかし、映像を見ていて、それがまさに映像であるように見えてしまうということも、相当稀なことです。あらかじめ映像だとわかっているから、そして何が映像かわからなくなって「これは映像ではないかもしれない」と疑われることもないから、「確かにこれが映像だ」とわざわざ再認する必要がないのです。だから映像の対義語は現実ではない。むしろ「あらかじめ映像だとわかっている映像」の「あらかじめ」のいかがわしさは、「あらかじめ現実だとわかっている現実」の「あらかじめ」の底なしの空虚さと同型だと思います。

中川さん

では、タネによって回収されることのない手品の突飛さとはいったい何なのか。そこで、タネとは違う、手品師のジェスチャーという別の要素に着目してみるとします。例えば、手品師が選ばれたカードをテーブルの上に置き、そのカードに触ることなく何某かのジェスチャーをしたとする。もちろん通常、変化を起こす原因となるのはタネであり、手品師のジェスチャーはそれを覆い隠す偽の原因なのだけれど、見る側は、その行為によって何らかの変化が起きたと思ってしまうわけです。でもそこで、もしもカードがジェスチャー前と特に変わった様子がないとしたらどうでしょう? 何も起こっていないはずはない、どこか知らないところで自分が気づいていないだけで何か変化が起きている、そう感じたりするんじゃないでしょうか。そうした感覚だけが残ってしまう、ということ。そこに一つの特殊な突飛さが生じるのだと思います。つまり、実際にはタネがなくとも、ジェスチャーと「タネがあるはずだ」という見る側の「信」さえあれば、手品的な結果が引き起こせるのではないか。

高嶋さん

そうか、あのカメラの振る舞いは、タネなき手品における手品師のジェスチャーだったのか(笑)。観客にタネのタネを植えつけていた、と。それで言うと、この作品はちょっと「いないいないばあ」ぽいところがあると思います。あり得ないことやモノ珍しいことが起こるから不思議なんじゃなくて、何かが単に現われたり消えたりするだけのことがなぜか不思議だ、という。もっとも、ジェスチャーだけが残存して「ばあ」ってやっているときに何もなかったりするから、「顔が見えない→だからいない」と「顔が見える→だからいる」という「いないいないばあ」の対応づけが反転していたりもするんですが。しかしそもそも、カメラによって撮られたものを見る経験全般に、タネも仕掛けもない類の不思議さが絡むとも思うんです。例えば『黄金狂時代』を観て「私はチャップリンを見た」と言うことはできても「私はチャップリンに会った」とは言わない。しかし、私がひとたび『黄金狂時代』を観たならば、そのチャップリンが映画の中だけでなく、かつてこの世界に存在したと信じるのをやめることはできない。これって、当たり前と言えば当たり前なのだけど、よくよく考えると、映像の根幹に関わるような不思議さがある。なので今回ご覧いただいた人に、そういった感触、「タネがなくとも謎がある」という感触が少しでも生じたとしたら嬉しいです。

中川さん

僕らのこの映像のような「タネがない手品」においては、原因がないのだから当然結果は留保されてしまうはずです。それでも、何か手品の結果と思えるようなものに未来で偶然出会って、それに対応した原因が、もしかしたら何らかのかたちで取り繕われるかもしれません。結果に先行して原因があるのではなく、原因のほうが結果よりずっと遅れてやってくるのです。だとするなら、手品のはじめに提示される何の変哲もないカードのようにカメラを提示し、「映画であること」を未来に先送りにする、そんなドキュメンタリー映画もまたあり得るのではないか。そんなふうに考えています。

鐘ヶ江さん

私が今回出したのは、プログラムの最後に上映した『Echo, Post-echo』という作品です。もう時間がきてしまったので、最後に一言だけこの作品について言わせてもらうと、決定的な出来事の手前にある予兆や予感みたいなものを扱っています。例えば「人が死にそうだな」とか、外部で何かが起きそうだと思うことと、自分がそれに対して準備すること、この二つのことの宙吊り加減、あるいは空振り加減だけを持続させて映像ができないかと考えて制作した作品ですね。